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「スナック」のお話 ②

今回は前回に続きポテトチップスのお話。日本のポテトチップスの歴史を紐解いていきます!

日本では終戦後、アメリカの進駐軍向けに生産されたのが初めてだそうです。先発メーカーとしては、アメリカンポテトチップス社、アメリカンフード社、リンカンフード商会、デイリー商事などがありますが、アメリカンポテトチップス社以外は、アメリカからの輸入物だったようです。

昭和22年にアメリカン・ポテトチップス社が牛込納戸町に創立されました。

社長は、戦前にハワイ・ホノルルで「フラ印」というポテトチップスの会社を兄弟で経営していた浜田音四郎。日本で最初にポテトチップスを製造し普及させた、いわば「ポテトチップスの父」

昭和22年に市ヶ谷に製造工場を設立。最初は米軍相手の商売であったが、日本向けにも売り出しました。まず、新宿と市ヶ谷で販売を開始。

一袋は90gで24銭、ブランドはフラダンスを踊る娘をデザインしたフラ印。缶入りも発売したが、受け入れられなかったため、まず銀座のビヤホールにサンプルを持って宣伝に努め苦労を重ねた末、つまみとして認識されていったそうです。鉄道、ホテルにも営業し何度も足を運び採用してもらい、今では日本のホテルのポテトチップスは、浜田氏の会社の製品が多いのだそうです。

昭和27年頃からは、ようやく日本人にも受け入れられ始めましたが、業界の発展を妨げないよう、製法特許はとらなかったそうです。現在のポテトチップス製造業者は、浜田氏の教えを受けた方が多いと言われています。

その後、後進各社が次々に登場!!業界の先駆者は皆さんよくご存知の湖池屋様!!

昭和29年に珍味屋を開業した小池和夫氏が、昭和33年1月に湖池屋を発足。同社は、昭和37年8月にポテトチップスを発売。当時は、かりん糖が夏季に売れないため、油菓子メーカーがその対策としてポテトチップスに参入するケースが多かったそうで、湖池屋様もそのケースでした。

その後、昭和32年2月には、汎洋商事様が32%、米パシフィックサプライズが62%の比率で「東京スナック」を設立。

昭和45年頃は、中小メーカーが乱立。湖池屋様オートフライヤーが2台となりトップメーカーとなりました。

昭和47年にスープ大手のあみ印食品がポテトチップスに参入しました。ジャガイモ産地の北海道に工場を建設し、原料供給体制を整えたのは画期的だったが(当時はジャガイモの供給は不安定であった)、昭和49年に倒産。

昭和50年、スナック業界のパイオニア、カルビー様がポテトチップスを発売します。三菱商事の斡旋で、昭和49年に倒産した「あみ印食品」のポテトチップス工場を買収し参入を果たしました。

石油ショックで他メーカーは再三の値上げをしていたが、カルビー様は品質管理とコスト削減策に知恵をしぼり、他メーカーよりも3割安い、ポテトチップス100円時代を築くことになります。

なんと!2年でシェア45%のトップメーカーとなり、ポテトチップス市場を拡大させ、昭和51年には、カールなどパフスナックを生産額で追い抜くほどに成長させました。

カルビー様はその後、全国に生産設備を設置し、ポテトチップス市場参入当時の約100億円の売上を平成7年には一千億円へ10倍以上拡大させ、現在では7割ものシェアを持つメーカーとなりました。

… と、今日はここまで!!

次回は更にその後の日本のポテトチップスの歴史を綴っていきます!お付き合いくださいましてありがとうございました!