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「キャンディ」のお話①

今回は、キャンディのお話を取り上げます。

キャンディ=大阪では「あめちゃん」と親しみのある名で呼ばれている「飴玉」は昭和40年以前は、おかしやさんに行って量り売りで買ってくるものでした。今日のように最初から袋に小分けにして売られていたわけではありませんでした。

大正9年、篠崎製菓を篠崎慎太郎が創業。舶来の欧風キャンディの研究に着手し、数年後にライオンのマークを付けて販売を行いました。その篠崎製菓、昭和10年に水飴の消費税問題が起きた時に、将来の菓子は砂糖を主体にするべきだと志し、バターをふんだんに使った「ライオンバターボール」を開発しました。(ちなみに水飴やぶどう糖は砂糖を使わないでも出来ます。酸糖化法といい、でんぷん類を硫酸・塩酸などで酸で糖化し、アルカリ性で中和後、活性炭でろ過した液を濃縮して作る。ぶどう糖はこの液体を更に糖化させたものである)  この品が篠崎製菓のライオンブランドを大きく有名にしたということです。

余談になりますが、せんべいで有名な亀田製菓も、元々はこの水飴づくりから始まりました。昭和21年の夏、新潟県中浦原亀田町の集会所で、古泉榮治が水飴・ぶどう糖を、楽しみの一つもない子供達に供しようと発言、もともと菓子作りを志していたということもあり、佐藤政一とともに加工所を設立した。昭和24年に水飴製造を機械化する為酸糖化装置を購入。

米を原料に製造に乗り出すが、米は使えず馬鈴薯のでん粉に切替えますが、この為、米が余ってしまい、止むを得ず現在に続く米菓業に参入したという経緯があるそうです。

へぇ~ そんな偶然始めた米菓製造で、今や№1の地位を占めるに至ったのか…。世の中、何がキッカケで何が起こるかわかりませんねぇ…

話を元に戻します。

その後、大正6年には曲谷古谷商店が製造開始。対象10年に山口県光市で、後のカンロになる宮本製菓所が飴を発売。「宮本の生玉(きだま)」として夏でも溶けない飴の技術があったと伝えられています。

昭和3年になると、春日井道雄が名古屋市西区に春日井製菓所を個人創業。かりんとう・金平糖の製造を開始する事になります。

次回は戦後産声をあげたキャンディメーカー様について、もう少し詳しくお伝えしてきたいと思います。皆さんに馴染みのあるメーカー様の歴史を紐解いていきます。 お楽しみにー!