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「チョコレート」のお話②

今回は前回に引き続き「チョコレート」の変遷について、戦時~戦後を振り返ります。

戦時中はカカオ豆の輸入制限令が出され、生産に支障をきたすようになり、昭和15年にはカカオの輸入は完全に途絶えました。

そして戦後、アメリカ占領軍は庶民にチョコレートを普及させる一役を担いました。ハーシーのチョコレートがアメリカ軍人によって日本人に与えられ、「ギブ・ミー・チョコレート」と、この言葉は戦後史を語る時に欠かせないフレーズになりました。

ジープに乗ったGIに向かって、子供らがこの言葉を叫ぶと、彼らはにっこり笑ってチョコレートを投げ与えたそうです。当時を思い出す人々は、自国では味わえない甘味に「アメリカ」を感じたといいます。そうして、戦後昭和25年にはカカオ豆の輸入が許可され、チョコレートの復興に繋がります。

昭和27年には玩具チョコレートで今後生産を伸ばしてくるフルタ製菓様が、ハリヤ製菓にいた兄弟・鶴彦さんの技術でソフトチョコレートを試作。

昭和28年には流通菓子に参入していた不二家様がこうもり傘を模った「パラソルチョコレート」を発売。最初は従業員が一人ずつ手で巻いていたそうです。

昭和30年には森永製菓様が「フィンガーチョコ」を発売。ビスケットにチョコレートがけした戦後チョコレートスナックの走りだそうです。

昭和32年に明治様が、明治ミルクチョコレートデラックスを発売。ここで一気にチョコレート業界が活気づきます。

昭和33年にはグリコ様の「アーモンドチョコレート」が30円で発売。当初は「アーモンドをチョコレートの種と勘違いして吐き出した。」という笑い話さえ伝えられています。

そうして昭和35年にはココアバターとカカオ豆の輸入が自由化された事もあり、翌年チョコレートがキャラメルを抜いてお菓子の売上第1位に躍進しました。

次回はお馴染みのチョコレート商品の開発秘話や商品名の由来など、へぇ~と思わず声が出てしまうようなお話をさせて頂きます。では、お楽しみに~!!